モアイの誘い ムーチャスエルテのジフ
ムーチャ・スエルテはスペイン語で『がんばって』という意味です!!

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南米の歴史

南米の国々の歴史の紹介です
アルゼンチン ボリビア ブラジル チリ コロンビア エクアドル パラグアイ ペルー ウルグアイ ベネズエラ
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Republica Argentina アルゼンチン共和国
1. スペイン人の来航 2. ナポレオンのスペイン占領
3.  独立後の政治紛争 4.  国家の繁栄とクーデター
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スペイン人の来航
DON PEDRO DE MENDOZA
1534年にドン・ペドロ・メンドーサは ラプラタ川の領土を征服するために探検をしました。 ドン・ペドロ・メンドーサはブエノスアイレスの第一の発見者です。
1492年のコロンブスの新大陸発見から、 16世紀に入ると、スペイン、ポルトガルから 数多くの探検家が新大陸にやってきた。
アルゼンチンに初めてついた ヨーロッパ人は Juan Diaz de Solisで 1516年のことだった。
Juan Diaz de Solisが 着いたラ・プラタ川周辺には 原住民が暮らしており、 Juan Diaz de Solisは 原住民に殺害される。
その後1536年には Pedro de Mendozaが ラ・プラタ川の河口に Santa Maria de los Buenos Airesを 建設し、植民化を図るが、 町は原住民の手によって破壊されてしまう。

JUAN DE GARAY
ブエノスアイレスの第二の創設者は フアン・デ・ガライです。 ペドロ・デ・メンドーサによって発見されたブエノスアイレスですが、 原住民の反抗に遭いうまくいきませんでした。 フアン・デ・ガライは1592年に原住民に暗殺されてしまいます。
ブエノスアイレスの町は廃墟となり、 放置されていたが、 1553年にラプラタ川をボリビアのほうから 南下してきた Juan de Garay によって再建される。
1776年には スペイン国王カルロス三世によって アルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイ、チリ、 ブラジルの一部にいたる植民地が リオ・デ・ラ・プラタ副王領に統括され、 ブエノスアイレスは リオ・デ・ラ・プラタ副王領の首都にされた。
ブエノスアイレスはヨーロッパの 中継港としての役割を 担っていたが、 ヨーロッパの支配を現地生まれの白人 クリオージョたちは 不満と思うようになっていた。
1806年、1807年と大英帝国が 2度に渡って、ラプラタ川流域へ侵略を企てたが、 クリオージョたちがこれを撃退した。
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ナポレオンによるスペイン本国の占領
5月25日広場にあるカビルド
ブエノスアイレスにある
カビルドでアルゼンチンの
独立が宣言された
 
1807年、ナポレオン率いるフランス軍が スペイン本国が占領される。
アメリカ合衆国の独立や、 大英帝国の撃退などで 独立の気運が高まっていたことから、 リオ・デ・ラ・プラタ副王領では、 本国に対して副王の退位と自治委員会の設立を 要求した。 1810年5月25日に独立宣言を行う。
現在のパラグアイ、ボリビア、ウルグアイにあたる 地域はこの自治委員会には入らず、 それぞれが独立を目指す。
1816年7月9日にツクマン市で各地方の 代表による国民議会がされて、 リオ・デ・ラ・プラタ地域の独立が宣言される。
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独立後の政治紛争
独立後は、 中央集権派と、連邦主義派の対立が起こる、 対立は 中央集権派の初代大統領 Bernardino Rivadavia から、20年にわたる独裁恐怖政治を行った 連邦主義派の Juan Manuel de Rosas の時代まで続く。 1852年に Juan Manuel de Rosas が失脚すると、 1853年に民主的な共和国憲法が制定される。
1862年にブエノスアイレス州選出の Bartolome Mitre が大統領に就任。 Bartolome Mitre はブエノスアイレス州が主導権を握る 連邦政権を新たに樹立して、 国家統合を巡る 対立は沈静化する。
以後、憲法に従って、6年ごとに 政権が交代。 歴代政権は近代化政策を掲げ、 移民の誘致、外資の導入、教育の充実に 力が入れられた。 1880年の Julio Argentino Roca 大統領時には ブエノスアイレス市は独立した 連邦首都として 制定、 1200万人もの移民が流入する。 イギリス資本による鉄道の建設で 輸送手段が確立され、 労働力の拡大もあて、 牧畜業が飛躍的に成長していった。
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国家の繁栄と軍事クーデター
ペロン大統領とエビータ
エビータの大衆からの人気が ペロンを大統領の座に導いた  
20世紀初頭、アルゼンチンは 農畜産物の世界屈指の輸出国となる。 2度にわたる世悪に 界大戦では諸外国への 物資の供給で多いに繁栄した。 富裕階層は競ってヨーロッパ流の贅沢に 財貨を使い果たした。
そのため、労働者の間で不満が高まり、 1943年に労働者の支持を得て軍部によるクーデターが起こる。
クーデターの首謀者 Juan Doingo Peron が大統領に就任。 労働者の保護、外国資本の諸企業の国有化、 イギリス資本の鉄道の買収などの 政策を打ちたてて、 ナショナリズムを高めていく。 ペロン大統領は労働者階級から 圧倒的な支持を受けたが、 いっぽう独裁色を強めるペロン政治への 反発も増大。 1955年のクーデターにより、国外に亡命する。
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長引く不況からの脱却
その後、軍政と民政が 繰り返される政情不安定な時代を 経て、経済は悪化の一途をたどる。 軍政権下の1982年4月、 Lepoldo Fortunato Galtieri がフォークランド諸島を イギリスから 奪還しようと フォークランド紛争が勃発。 アルゼンチンはこの紛争に敗北し、 政府は民政へと移管した。 戦争の経済に与えた影響は大きく 年間1000%を超えるハイパーインフレに悩まされた。
1991年、 Carlos Saul Menem大統領が 選出。 新政権はデノミを施行し、 1ペソ、1ドルの固定相場を導入。 エネルギー、電話、鉄道、航空事業の 民営化など、徹底的な経済改革を推し進めて 経済は急速に回復した。
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